一発出来茶太郎のバーチャル旅行

一発弾丸ツアー 広島~宮島~津和野~萩~秋吉~宇部

一発弾丸ツアー

2004年 4月12日~4月14日までの
2泊3日の弾丸ツアー

羽田空港から広島空港へ 羽田には車で行き 駐車場へ調べたら長時間の割引もあったので そうしました
ブルーガイド ニッポン を見たら広島西飛行場と言うのがあったので てっきりそこだと思い込み 着陸時に?? なんか山の中?    空港前のレンタカーへgo
本郷ICからカッ飛び 西条ICから375号で倉橋島へ長門の造船歴史館へ 当時 月曜休館 桂浜ドッグ跡なども良く観れず 江田島の海上自衛隊第一術科学校へ
正門に着くと 要予約 仕方なく 広島へ

切串港へ487号を進み 12:10頃 乗船
港には小さな事務所があり 手続きをして 車で待ちます

15:23前後 平和記念公園当着 周辺のパーキングへ駐車し 広島平和記念資料館を内覧後 この原爆の子の像へ 撮影時間が前記の時間なので これぐらいだと思います

広島平和記念碑
原爆ドーム 広島県産業奨励館
負の世界遺産

1996年(平成8年)12月 世界文化遺産登録

メキシコで開催された世界遺産委員会ではアメリカは調査報告書から『世界で初めて使用された核兵器』の文言を削除させ登録に猛反対 また中華人民共和国は『日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある』として審議を棄権した
平和記念公園の元安橋 元安川の対岸からの眺めです
相生橋手前の平和記念公園からのショット
1915年(大正4年)広島県内の物産品の展示・販売の施設として建築され 広島県物産陳列館との名称で
1933年(昭和8年)に広島県産業奨励館と改名された 
また被爆後はその残骸の姿から原爆ドームといつしか呼ばれるようになる
1915年(大正4年)4月5日 設計者(チェコ)ヤン・レツル 一部鉄骨使用の煉瓦造 石材とモルタルで外装 地下1階地上3階建 中央部に5階建の階段室を設け その頭上に銅板のドームが載せられた大胆なヨーロッパ風で川面に映えるモダンさが当時うけていた セッション様式と呼ばれる建築物 内部中央には優美な木製螺旋階段が4階まで施されていた
投下目標とされている 相生橋からの広島県産業奨励館 ここから南東に約160㍍ 高度600㍍で炸裂 爆風圧力1㎡あたり35㌧ 風速440㍍

1945年8月6日 月曜日 午前8時15分
  ゲノラ・ゲイB-29 が急降下爆撃によりリトルボーイ投下

1939年9月1日 レオ・シラードがアインシュタインにフランクリン・ルーズベルト大統領への手紙に著名をせまる これにより原爆が開発され出来上がる 当時 開発者や軍部 研究者は 此度原爆を使わなければ 未来永劫使用は不可能だと進言したとか?

第33代アメリカ大統領H.S.Truman
ハリー・トルーマン

陸軍長官H.L.Stimson
 ヘンリー・スティムソン
      
科学者J.R.Oppenheimer
ロバート・オッペンハイマー

が原爆投下の決定を下すにあたった重要人物とされている 

リトルボーイはウラン型で確実に破裂する弾頭を選んだ 

不発に終わり解析を恐れての事とも伝わる

 世界人類初の原子力爆弾の投下

  後年 アインシュタインは
懺悔と後悔の念に苛 まれたとか

トルーマンは日本の16の地域への
原爆投下の指示書にも署名をしていた

1960年骨髄性白血病で亡くなられた楮山ヒロ子さん(高校生)の日記から心を打たれた方々により原爆ドーム保存の活動が始まり1966年(昭和41年7月)広島市議会が保存を議決 1967年(昭和42年)保存募金により保存工事開始 原爆投下から20年の歳月を費やしました

【あのいたいたしい産業奨励館(原爆ドーム)だけがいつまでも恐るべき原爆を世にうったえてくれるだろうか】

楮山ヒロ子著日記から



広島城を通りから眺めながら宮島へ

広島城
別名  鯉城

広島城は1945年(昭和20年)原爆の日に倒壊1958年(昭和33年)以降に再建された復元城 毛利元就の孫の毛利輝元が築き 250年間存属した 1599年(慶長4年)10年の歳月をかけ落成した この頃に 広島 と名づけられたと伝わる 当時は大阪城に匹敵する規模とされている
1600年 関ケ原の戦いで 毛利家は減封され代わりに福島正則が入城 しかし大規模な改築や城下町づくりで家康を怒らせ 1609年(慶長14年)に謹慎 1619年には洪水被害の修復作業が武家諸法度に抵触し信濃国川中島へ転封させられ 1619年(元和5年)浅野長晟が入城 いらい浅野氏の居城となる

1894年(明治27年)広島大本営が設置 明治天皇が行幸し 短期間ながら臨時首都となる

ここまでの間に火災などにより本丸などの建物は失われている

春暁や 城あらはるる 松の上

当時 従軍記者だった  正岡子規作

16:00頃   宮島へ出発