一発出来茶太郎のバーチャル旅行

一発弾丸ツアー 津和野

廿日市ICから広島JCT経由広島北JCTから六日市IC着陸
国道187号で津和野方面へ
新南陽津和野線 (津和野街道)
県道3号 左折 鹿野方面 
道案内看板に従い向かうと大きな鳥居が
それを過ぎたら到着です
 グーグルマップでは1:50コース

2004.4.14 当日11:51到着

津和野へようこそ

山陰の小京都

島根県鹿足郡津和野町

面積307.03k㎡
町木 樟 町花 つわぶき シンボル 白鷺

1889年4月1日(明治22年)    初代津和野町成立
1955年1月10日(昭和30年)   2代津和野町発足
2005年9月25日(平成17年)   3代津和野町発足

この地には 浦上四番崩れでキリシタンが長崎浦上から津和野・萩・福山に(1868年~1870年まで)移送(捕縛・流刑)された そこで拷問・私刑を受け続けた その過酷さ陰湿さ残虐さは旧幕時代以上のものであった 1873年2月24日 キリスト教禁制廃止 配流者数3394名の内662名が命を落としたとされる また森鴎外や西周 亀井亜紀子(五世祖父に岩倉具視を持つ 出生は東京との記述もあり)など幾多の人物の出身地である


津和野へ降る途中にある鳥居です
コンクリート製 高さ18㍍柱の直径2㍍扁額の大きさは約畳6畳分あるそう 1963(昭和43年)
11月 北九州市の人が太皷谷稲成神社に寄贈品
西周旧居 にしあまねきゅうきょ
1987年(昭和62年)7月20日
史跡名勝天然記念物
津和野川沿いにあり津和野駅から徒歩30分
現武家屋敷の主屋は1853年(嘉永6年)の
火災後に再建されたもので本人は住んで居ない
 西周が4~25歳(21歳説記載記事もあり)
まで暮らした場所です 
鴎外と同じく医者の家で 
茅葺の母屋 土蔵(勉強部屋)土塀が残る

太皷谷稲成神社

たいこだにいなりじんじゃ

日本五大稲荷の一社 全国で唯一いなりが『稲成』である
(稲成神社 津和野町  稲荷神社 久留米市)
 登記上の宗教法人名称としてこの2社も存在する
創建 1773年(安永2年) 島根で2番目に参拝者が多い

伏見稲荷大社と同様に 千本鳥居
(御礼が約8割 祈願が約2割で
古い物より建て替えるので数が前後する)
 があり約300㍍に渡る263段の石段を
踏破すると本殿に辿り着く
道路も整備され車でも参拝可
創建後 歴代藩主のみの参拝とされていた
1773年5月15日津和野藩7代藩主 亀井矩貞が藩と領民安寧のため京都伏見稲荷大社から観請を受け
津和野城(一本松城 三本松城 石蕗城とも呼ばれる)の鬼門である太皷山の峰に建立したのが始まりとされる 1867年(慶應3年)7月に藩内での神社整理で津和野乙女山に鎮座した熊野権現社を遷し 相殿として祀り社号を熊野神社とした 1927年(昭和2年)稲成神社と改称 
津和野城の城山の一角にあり 時の刻を知らせる太皷が鳴り響く谷であったことから太皷谷となり 稲成は願い事が叶うとの事からと言われる その根拠が御蔵番が蔵の鍵を無くし切腹の沙汰を申し受けたが 禁を犯し神社へ七日七晩願掛けに通ったところ 願いが叶い鍵が見つかり除名された故事より 津和野藩主が【成】の字を用いたと伝承されている 現存する元宮(旧社殿)は1923年(大正12年)に建立
1924年(大正13年)に当時皇族だった 北白川宮富子が参拝の時の宝物寄贈により宝物殿が設置され養老文庫が設けられた 1969年(昭和44年)新社殿の拝殿と本殿が建立されて遷宮が斎行された 古い社殿が元宮となり分霊が奉斎される事となた

到着時 まだ当時の妻の具合・機嫌は悪く仕方なく写真撮影のみで萩へ

萩へ