近藤勇陣屋跡
〒 270-0164 千葉県流山市流山2-122-3
2023.5.5撮影分 情報
近藤勇はこの地で官軍に降ります。勇最後の地です。処刑は違う所でされます・
現在はこの状況です。Googlemapでは色々出ますが、現在工事中です。
慶応4年1月3日鳥羽伏見の戦い開戦 その後敗走を続け分散しながら、浅草 五兵衛新田へと大久保大和を名乗り(近藤勇)移動。4月2日未明から午前中にかけ五兵衛新田の金子家から総勢200余名が流山へ移動。丹後の渡し跡から、流山に入り、本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿劣とったとみられている。翌3日、流山に賊徒が屯集しているとの情報を得た新政府軍の先峰隊(香川敬三隊)は流山を包囲した。
しかし、戦闘態勢が整っていなかったため、大久保大和は総督府へ出頭して幕府公認の治安部隊を主張したが、近藤勇っであることが露見。捕らえられて4月25日、板橋宿で処刑された。
残って居た隊士は4月6日会津へ移動を始めるが、奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道を抜け会津に向かったとされる。当時近藤は「流山に兵火を上げる事は町の人々を苦しめる事になる。」と投降したとも伝えられている。4月の第二日曜日には『流山新選組まつり・勇忌』が行われている。
この地で近藤勇 新撰組局長と今生の別れをした、土方歳三 新撰組副長は 宇都宮の戦い 会津若松の戦い を経て 五稜郭で最後を迎える。土方は国府台での戦いの後ここで合流したとされる。
官軍は 吉川三輪野江の渡し場(現.羽口の渡し跡と推測する説もあり)より、江戸川を渡り北から新撰組宿陣地へ攻め寄せました。近藤勇は『加村の渡し』とも呼ばれる現.矢河原の渡し跡から連行されたとも言われている。
どの様になるかは未定です。
令和6年3月 竣工予定
万上通り方面(東)に行き 上流方面(北)へ向かう
下流方面(南)に向かう バス通り(西)へ向かう
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