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関宿城跡

2024.1.22撮影分・情報

南(江戸川下流へ)方面へ進む

Googlemapでは関宿城博物館下から迂回する様出ますが
土手の獣道で降りる事も出来ます

関宿城跡

関宿城の歴史

関宿城の起源は明確ではありませんが、長禄元年()一四五七)には梁田氏によってこの地に城が築かれていました。
関東平野の中心に位置し、水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから、「この城を手に入れるのは一国を得ると同じ」と称され、戦国時代にはたびたび争奪戦が繰り広げられました。
 梁田氏による支配は一〇〇年ほどわたりましたが、天正二年(一五七四)に後北条氏の支配下となります。小田原征伐の祭には、豊臣・徳川連合軍の手に落ち、天正一八年(一五九〇)、徳川家康の関東移封に際して、家康の実弟である松平元康が二万石の領地を与えられ関宿藩主として入封します。
以後は、板倉氏、牧野氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永二年(一七〇五)に久世重之が入城してからは、明治維新まで久世氏が藩主を務めました。
 江戸時代の関宿城は本丸、二の丸、三の丸発端曲輪のほか侍屋敷が置かれ、三層の天守を中心に、多くの建物が築造されていました。明治二年(一八六九)の藩籍奉還後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられました。
 市内には埋門(うずめもん)(市指定有形文化財・東高野)や本丸御殿(実相寺客殿)などが現存しています。また、本丸の三分の二が関宿城跡(市指定史跡)として残されています。

野田市教育委員会
案内板参照

               房総の魅力500選
                            千葉県
                        「房総の魅力500選」は、昭和58年千葉県
                         の人口が500万人に達したのを記念し、魅
                         力あるふるさとずくりの一環として昭和63
                         年1月に選定されたものです。
関宿城跡
 関宿地区は、関東平野の中央に位置していることから、古来より関東を制しようとする豪族や大名の間で争いがくりひろげられました。特に江戸時代に入ると江戸からここまで14里(56㌖)の距離にあるため、幕府にとっては、扇の要にも似た重要な外郭都市で、譜代大名が常に置かれました。
 江戸時代末期、久世藩の頃、関宿は宿場町として最も繁栄しました。  案内板参照

城跡の見守り猫?

関宿博物館との位置関係
自信のある方は足を御運び下さい

建設機械脇の獣道